【お時間のある方向け】
(小・中学生時代)
小学校1年生の時、近所の怖いお兄ちゃんに「遊びに行くぞ」と誘われて到着したのがサッカー部の練習。という事で強制的にサッカー部に入部。小学校3年の時、雨が降っているドロドロのグラウンドに正座し、「神様仏様、どうか雨を止ませてください」と、この怖いお兄ちゃんに命令をされてやった事も数回。小学校4年生からレギュラーになる。運動場の砂場で、キャプテン翼のようなオーバーヘッドキックの練習をよくしていました。6年生からキャプテン。小学校6年生の時に近畿大会に出場。中学校でも引き続きサッカーを続け、3年生時にはキャプテンに。それまではどちらかと言うとガキ大将タイプであったが、思春期(中学校3年)には自分の今までの好き放題な振る舞いが恥ずかしくなり、性格が急に暗くなったのと同時に、「この人は何を伝えようとしているのか?」「この人は何を考えているのか?」と、他人の事をとても気にする様になる。とにかく人の意見を聞かず、思ったままに行動していましたが、思春期には自分のわがままさに気付かされ、周りからの見られ方をかなり気にする様になる。
(高校生時代)
高校に入ると、サッカー部の多くの先輩のうち11人がなんと和歌山県選抜の人(和歌山県で20人ほどの枠なのに・・・)。しかも同級生は中学校でキャプテンをやっていた人がズラリ・・・。ビビりながら練習していたが、何とか踏ん張って試合に出られる様になり、高校3年の時に全国大会に出場(近畿大学付属和歌山高校)。しかし、初戦の対戦チームにはJリーグ内定している選手がいる、というだけでビビッてしまい、勝てる気がしないままに闘っていました(もちろん敗北)。
ちなみに勉強のほうは、進学校というのもあり、期末テストや中間テストはなく、月例テストという毎月テストの環境でした。赤点を取るとサッカー部の練習に参加できないというのもあり、かなり勉強していました。英語だけがやたら成績がよく(自己最高は模擬試験で県内6番だったことも…)、キライな事は適度に、好きな事を徹底的に磨く。という事で、外国語大学への進学を目指す。
高校では、サッカーにおいても勉強においても「環境」、なかでも、少しストレッチした環境に飛び込むことが自らを成長させてくれるんだという事を学ぶ。
(大学時代)
調子に乗ったまま大学に行き、サッカー部に入ると、自分よりうまい人「しか」いない状態に(当時の和歌山はとてもレベルが低かったので)。大学ではたまに試合に出られる様にはなったが、レギュラーになる日は来ず。上には山ほど上がいると思い知らされる。ちなみに勉強のほうは、、、外国語大学は女性7:3男性という割合で、、、勉強にならなかったという事だけお伝えしておきます(笑)第2外国語で専攻したスペイン語は、単語しか分かりません。
卒業後のサッカー部メンバーと連絡を取ると、やはりサッカーが上手かった人はスゴイ出世をしているか、商売で成功している人が多く、スポーツも仕事も「考え方」という点において共通点があるんだなと言う事を学ぶ。
(社会人になって:転職の日々)
社会人1年目は、地元の老舗百貨店外商部の一員として勤務。入社1年目は上司からの引継ぎはいっさいなく、飛び込み営業による新規外商会員獲得活動を毎日続ける。ペルシャじゅうたん(玄関マットだけで100万以上するもの等)や備前焼、着物、宝石や高級時計などの持ち回り営業および催事営業などを経験。若さを武器に、日々体当たりの様な営業をしていました(結果的にはおばちゃん?おねえさん?に可愛がられる)。毎週月曜の朝に社長朝礼がありましたが、「今の負債は○○億で・・・」と、毎回、減ることがない負債から発表。社会人になりたての自分が聞いていても「このままならかなりヤバイ」と思い、転職を決意。「辞めるなよ、もったいない」と先輩たちに言われましたが、自分の意志を貫いて退職。ちなみに自分が退職して1年後に、このデパートは破産。俯瞰の大切さを学ぶ。
その後は町の小さな輸入商社に勤務。もともとは景品卸の会社だったが、小売店卸を新規事業として行うタイミングで入社。社内マニュアルがまったくない中、前職と同じように飛び込み営業からスタートし、スーパー、大手ドラッグストアチェーン等の新規開拓を行う。10名足らずの会社(1人抜けたらてんてこ舞い)だったので、あらゆる業務を兼任。通関業務などもゼロから学び、チームで働く事、お互いに協力し合う事の意義を体感。またこの時、取引先が民事再生法手続きをし、売掛金未回収を経験。大きな金額だったのでパニックになりましたが、当時の社長の懐の大きさに涙を流したのを覚えています。当時はまだ若く、質よりも数を追いかけていました。
その後は保険業に携わるが、1年足らずで退職という、なんとも飽きっぽさがあからさまになる様な転職を繰り返す。
その後はロイヤルカナンジャポン(本社:フランス)で営業職として約10年勤務。ここで問屋さん、および取引先の店員さんに販売してもらうという、直接的に販売できないもどかしさと共に、「人を通して成果を出す」事をじっくり学ぶ(推奨販売が必要な商品でした)。外資系企業独特の横文字(日本語で言えばいいのに)が横行する社内で、「なぜこうも格好つける様な言葉を使うのか?」と疑問に思う。大阪営業所での採用となり、関西・四国担当。今まで勤めていた会社のなかで最も競争意識が高く、チャレンジ精神をもって業務に向かう。その結果、東海・北陸エリアリーダーに昇格。リーダー(管理職)になってすぐ、部下とはまったく上手くいかず。
この頃、社外の講師に学びに行くと同時に、タイミングよく会社がコンサルタントを採用し、社内教育(マネジメント)を受ける機会に恵まれる。「コンサルタントは偉そうな事ばかり言ってるし、好きじゃない」と思っていたが、社内講師の方はとても親しみやすい方で、かつ、難しい言葉をいっさい使わない等身大の方であったので、「自分もこういうスタンスで仕事がしたいな」と思う様になった。と同時に、マネジメントとは何ぞや?を180度間違えていた事に気づかされる。そして実践へ。結果的には東海・北陸での実績を評価いただき、1年半後には東京本社でのエリアリーダーに。当時は決算まで残り3か月という状況で、約1か月分の売上ビハインドという状況だったが、今まで学んだ「チームで成果を出す」事に集中し、なんとか予算を達成。その2年後にはマネジャーに昇格。マネジャーに昇格後、販売戦略策定(マーケティング)にも携わる。アジアパシフィック会議にはなんちゃって英語で挑む(TOEICは735点止まり)。ちなみに東京では関東弁にチャレンジしたものの、うまく話せない事が分かったので、転勤1か月後以降はバリバリの関西弁で働き通す。
土日祝も含めて早朝から深夜まで働き続け、転勤続きに文句も言わずについてきてくれた妻との心の距離感がどんどん開いていき(子供の世話、家の事はまったくと言ってよい位何もしていませんでした)離婚へ。子供に会えない日々が続き、何のために働いているか分からなくなり、いま一度人生を見直す事に。結局は悔いなき人生を進もうと独立を決意し退職(現在は2度目の結婚をしています)。
開業初年度はあるFCに入ったものの、うまく行かずに8ケタのお金を失う。挽回すべく、マーケティングのある本を読んだ時に「お金がなくても、時間と靴はあるだろ」という、マーケティングとはまったく関係のない言葉に衝撃を受ける。基本を忘れてはいけない事をいま一度思い出す。現在のコンサルタントの先駆けは、今までの経験と同様、飛び込み営業からスタート。販促物作成代行業務からスタートし、「単発じゃなく、継続的なサポートはできないのか?」と、あるクライアントさんから打診頂いた事が現在の仕事のキッカケになる。独立し10カ月後に、はじめてのコンサルティング契約を獲得。知識提供ベースのコンサルティングを行っていたが、それでは成果に限界がある事に気づき、スタンスを180度変更。クライアントさんの現状を個別にしっかりと把握し、理想の状態を実現するためのプロセスを共有、構築するので、業種が同じであっても進め方がまったく違うという伴走型の支援を行う。結果的には、現在のクライアントさんは平均でも5年以上お付き合いを続けて頂いております。
私はあらゆる講師や人生の師を通し、自分の「らしさ」、いわゆるスタンスが構築されてきました。今の仕事を行うにあたり、
・誰もが理解できること
・誰もが実践できること
がもっとも大切であり、理論や理屈という難しい言葉を並べるのではなく、
「これならウチでも出来そうだ」という、腹落ち感を得ていただける取り組みを支援する事の重要性に気付きました。
現在は、今までの経験およびあらゆる投資をしさらに磨きをかけたコンサルティングスキル、マーケティングの知識、およびマネジメントで得た経験とスキルを活用し、クライアントさんにとって世界一の伴走者として成果を最大化する支援を行っています。仕事の一番の楽しみは、クライアントさんがご自身の新たな可能性に気付かれた瞬間に立ち会う事です。